[PDF] 国際通貨基金の性格 : ドル危機についての予備的考 察
米国は失業(年間550万人)、インフレ、輸入増に悩み、貿易収支はおよそ80年ぶりに赤字に転落する気配が強まり、その元凶は日本と見なしていたのだ。米側の出したシグナルに対する日本政府の反応は、財政金融による景気対策の強化である。だが当時財政でやれることは財政投融資の追加ぐらいで効果はたかが知れている。狙われたのは日銀の公定歩合だ。この公定歩合は5月初めに第3次引き下げを実施したばかり。景気は回復過程(4-6月に底入れ、徐々に上昇中)に入っているというのが衆目の一致するところで、日銀は金融政策上、第4次引き下げの必要はないと判断していた。日銀に拒否されると、景気対策の目玉がなくなる。9月に第8回日米貿易経済合同委員会を控えているだけに、このままでは米側からの円切り上げ圧力をかわせなくなると大蔵省は大慌てにあわてた。国内的にもまごまごしていて実力者、田中角栄通産相のペースにはまり込むのは、何としても避けたい。水田蔵相がある夜、佐々木直日銀総裁を呼び出して直談判し、数少ない金融政策が鈍刀になることを恐れていた佐々木さんを強引にねじ伏せた。
ダイエー三和店(神田中通六丁目)には(二日)午前七時ごろから主婦が並びはじめ、午前十時の開店時には三百人の列ができた。(中略)トイレットペーパーは一パック四個入り九十八円という格安さだったが二百五十二個しかなく、一人一個ずつに制限したにもかかわらず五十人近くがあぶれるしまつ。(中略)ニチイ尼崎店(神田北通五丁目)にも約三百人の行列ができたが、売り出し数量は百八十人分。「どうしてもっと売らないの」「そんなに品不足なの」と詰め寄る主婦たちに係員は「また明日並んでください」と汗をかきながら応対…(昭和48年11月3日付サンケイ新聞尼崎版より)
また、11月4日付の毎日新聞尼崎・伊丹版は、2日の騒動でけが人が出た灘神戸生協園田店が、3日のトイレットペーパー販売を中止したと報じました。
(尼崎経営者協会常務理事、前掲『尼崎経協』第133号より)
「大企業の下請事業や零細企業の多い尼崎は、その(ドル・ショック、石油危機の)影響は一層深刻で工場街の火は次第に小さくなり企業の事業縮小や閉鎖停止など零細企業は青息吐息の状態。従って市の人口も(昭和)四五年の五五万余人から五三年の今日では五三万七千人と漸減」
ドル危機=国際通貨ドルの凋落 | NDLサーチ | 国立国会図書館
こうして7月27日、財投の追加から成る景気対策、第4次公定歩合引き下げが決まったのだ。この二週間前、佐々木さんは通貨不安を巡り「ドル切り下げ、金価格引き上げの時、日本としてどうするかが分からない」と行方を案じながらも、公定歩合については「どの程度の心理的効果が期待できるか、ということだ。金融政策が効果のない使われ方をして傷つけられるのを恐れる」と発言したばかりだった。日ごろから辺りをはばかることなくずばずば発言する日銀関係者は、公定歩合引き下げ決定の直前、「政府の施策はお粗末な内容だ。財投追加の効果はすぐに出ない。日銀としてはポリシーミックスの観点が大義名分。効果がなくてもオジヤみたいなものだから、責任は持たなくてよい」と痛烈に皮肉った。
(平成2年発行、『クボタ100年』より)
石油危機による物不足・物価上昇への対処として、同社は原材料安定調達のため資材部門を強化、営業部門においては納期再検討や販売価格引き上げを行ない、さらには全社的な省エネルギー・省資源対策を実施していきます。
「鉄管・鋳物〔いもの〕の主原料である銑鉄やスクラップなど量的な安定確保と原価低減の重要性が増してきたので、自動車などの大型スクラップを使用できるキュポラの大型化(集中熔解)の検討を進めた。その結果、(昭和)五一年船橋工場に八〇トン、翌五二年武庫川製造所に六五トンの大型キュポラが完成し、主原料の安定的・経済的調達を可能にした」
さらに製造部門の集約化や不採算部門の廃止といった合理化をすすめ、その一方で主力の農機・鉄管に次ぐ新規分野の開拓(住宅建材、合成管、ポンプ事業など)により経営の強化がはかられました。
(注:キュポラとは、材料を溶融〔ようゆう〕して底部から鋳物地金〔いものじがね〕を抽出する溶銑炉〔ようせんろ〕のこと。キューポラとも言う)
6月下旬、BIS(国際決済銀行)月例会議 に出席した井上四郎日銀理事(後にアジア開発銀行総裁)もBISでの緊迫した空気から危機感を抱いて帰国した。「BISでも日米関係が緊張化している。円問題は日米関係だ。欧州諸国は日本の輸出競争力の増大については観念的な脅威しか感じていないが、米国はそれを肌身で感じ取っている」
(尼崎商工会議所会頭、『尼崎経協』第133号-尼崎経営者協会、昭和53年11月-より)
「石油ショック以来世界の様相が全く変わり、どの国もインフレに悩まされ混乱の渦中から脱しきれない状態が現在です。わが国も例に漏れず、繊維〔せんい〕、造船、鉄鋼界も大変です。今では高成長時代を夢見る経営者は全くおりませんが、わが国は外国と違って終身雇用制であり、情も重なり簡単に人員整理も出来ません。従って経営者は辛抱に辛抱して、景気の回復を待ち、堪え忍んでいる方々が多いんです」
コロナ禍に伴う米国の経済悪化や財政赤字の膨張などを受け、「ドル1強」が大きく揺らいでいる。果たして基軸通貨の未来はどうなるのか。
1971年、ドルの流出によるインフレという経済危機に直面したニクソン大統領は、ドルと金の兌換停止などを主眼とする思いきった経済政策を打ち出し、世界に衝撃を与えた。それをドル=ショックという。
インフレーションとドル危機 〜 の在庫検索結果 / 日本の古本屋
ドルの価値が低下した結果、1ドル=360円という固定相場制も見直す必要が出てきます。
1971年、ドル安・円高の実情に合わせる形で、「円切り上げ」が行われ、1ドル=308円に見直されることになりました。
「ドル危機」の基本性格とアメリカ為替政策の展開――景気循環の視点から――
1971年、ニクソン大統領が、ドル防衛政策を打ち出し、ドルと金の兌換停止に踏み切ったことは、戦後世界経済のブレトンウッズ体制を崩壊させ、同時に打ち出した10%の輸入課徴金の賦課は、同じく戦後世界経済の原則であった自由貿易主義を揺るがすこととなった。
教養としての金融危機 | 第2章 国際金融における「ドル」の役割
しかし、ベトナム戦争でアメリカが借金を行い、多額の戦費を費やした結果、ドルの価値が低下しました。
結果、それまで通りに金とドルを結びつけておけなくなったアメリカの結論が、金・ドルの交換停止だったのです。
しかしその後減少に転じて11月中旬は240億ドルになり、60億ドルの流出を示した。
もう一つは、金・ドルの交換停止です。
単純化して解説すると、当時、アメリカのドルは金と交換することができる安定した通貨でした。
そして、多くの国が、ドルと結びつくことで自国の通貨の安定を保っていました。例えば、日本は1ドル=360円という固定相場となっていましたね。
米ドルは基軸通貨の地位を失わない…脱ドル化が起こらない3つの理由
1971年5月にマルク投機が発生、マルクが変動相場制に移行したことは、玉突きのように日本円を窮地に追い詰める作用をした。円の購買力が高まっているのは事実としても、国内経済界に根強い円切り上げ反対論を無視して切り上げに踏み切る勇気は政治にはない。緊迫化してきた情勢にどう対処するか、何とかして円切り上げを回避したいと政府が6月に急きょ打ち出したのは、輸入自由化の促進をはじめ、特恵関税の早期実施、関税引き下げの推進、資本自由化、資本輸出の促進、非関税障壁の除去、経済協力の促進、秩序ある輸出の確立をちりばめた円対策8項目(総合的対外経済政策)だ。だが自由化などは関係者間の調整が一筋縄ではいかないから小出しにするしかない。一方海外からは円切り上げ圧力がいよいよ猶予ならない事態に突入している情報が次々に入ってくる。6月下旬米国での日米財界人会議から帰国した岩佐凱実富士銀行会長が明らかにした米国内の空気はこうだ。
東京為替:ドル・円は変わらず、日本株高は継続 | マネーポストWEB
決定を受けて私が書いた記事のあらましはこうだ。「景気総合対策は、景気の早期回復、黒字幅縮小を狙いに円防衛という“錦の御旗”を掲げ、いろいろ盛り合わせてはあるが、財投の第二次追加をはじめいずれもすぐ効果を期待できるものではなく、心理的効果を狙うということであれば、やはり目玉商品は公定歩合だ。水田蔵相は『これ以上打つ手はない』と述べており、円切り上げを巡って激しい応酬が繰り返されると見られる第8回日米経済委に向けて政府、日銀の用意はまず九分通り整った形だ。まさに円防衛に対する背水の陣と言っても過言ではないだろう。第4次公定歩合引き下げを巡って特徴的なのは、佐々木日銀総裁の決断が割合早かったとは言うものの、日銀全体としては終始引き下げに消極的だったことだ」。
Hiroko Hamada[東京 26日 ロイター] -ドル/円 ユーロ/ドル ..
1971年8月15日、米大統領ニクソンが発表したドルと金の交換停止などの措置。それによってドルを基軸とした国際通貨制度が動揺した。
米 台湾に速射砲や通信システムなど 3億ドル近く売却決定 | NHK
強まる円切り上げ圧力に対して大蔵省が取った政策は、まず1969年1月からの円シフト(外貨金融から円金融への振り替え)誘導策に始まって対外経済効力の増大、自主防衛力の増強など外貨準備の増加を抑え、あるいはあまり目立たないようにする措置である。だが1970年下期から国際収支黒字幅は拡大して外貨準備が著しく増え、1971年に入っても大幅な黒字基調が続いた。これに反して米国は日本の輸出攻勢を主因に拡大する貿易収支の赤字、失業の増加傾向にいらだちを強めつつあった。そこで出てきたのがニクソン政権の「ビナイン・ネグレクト(優雅なる怠惰)」政策だ。要は国際収支の赤字を無視して景気拡大策を取るということであり、強い通貨は切り上げるべきだという考え方に立っていた。これは国内政策を重視し、ドルのたれ流しを続けることを意味したから、ドルの信認を一層低下させ、国際通貨不安を一段とかき立てる結果になった。この政策は基軸通貨国としては無責任のそしりを免れない。ともあれ、世界経済全体を成長の鈍化、不均衡の拡大、インフレの高進という暗雲が大きく覆いつつあった。
【金融ヒストリ】ニクソンショック #金融危機 #ニクソン ..
(昭和52年発行、同社『最近十年史』より)
「(ドル・ショックによる)輸出の一時的混乱と国内需要の停滞により、鉄鋼業界の先行き見通しはさらに暗澹たるものとなった」
「生産の七〇%以上が輸出に向けられていた鋼管製造所(尼崎)では、主力の第一製管工場が四十七年一月以降二交替操業へシフトダウンして減産を余儀なくされるなど苦境に追い込まれ、全所を挙げて省力をはじめとする非常時合理化計画を推進…」
こうしてドル・ショックを乗り切った同社は、石油危機下においても減産することなく、エネルギー使用量規制や原材料費高騰を合理化と価格転嫁により克服していきます。石油危機の影響で世界的に資源開発が活発化したため、同社の製造する油井・油送用鋼管は需要が大幅に増大し、昭和50年頃まで生産は繁忙〔はんぼう〕をきわめたと言います。
3万人が那覇市の与儀公園に結集した「ドル危機から生活を守る県民総決起大会」=1971年9月1日
当時の国際情勢の中で日本の政府、経済界は円問題をどう位置付けていたのか。前述の通り、井上四郎日銀理事は「円問題は対米関係」と指摘していた。この対米関係の糸をさらに手繰っていくと米中関係が浮上してくる。この年7月15日、ニクソン大統領が全米向けテレビ放送で翌72年5月より前に長年疎遠な関係にあった中国を訪問すると発表した。第1次ニクソン・ショックとも言われる。ニクソン大統領としては差し当たりは緊張緩和が狙いだったのだが、ともかく米国は紛れもなく中国との関係正常化に乗り出したのである。これは日本を頭越しにした発表で、米国の意向に沿って中国封じ込めに全面的に協力してきた親米路線の佐藤栄作政権に大きな衝撃を与えた。日米関係に新たに米中関係が絡み合ってくる。この時経済界の一部の人は米中が手を結ぶと、日本は窮地に追い込まれるのではないか、という危機感を抱いた。
結論からいえば, アメリカにあっても, 各国の例にもれることなく景気循環と密接な
さらに追い打ちをかけたのが、昭和48年10月に始まる石油危機(第一次オイル・ショック)でした。第四次中東戦争をきっかけにペルシャ湾岸6か国が原油公示価格の21%引き上げを決定。次いでアラブ石油輸出国機構(OAPEC)が減産とイスラエル支持国への輸出制限を開始。さらに石油輸出国機構(OPEC)が昭和49年1月の公示価格2倍値上げを通告。これにより原油価格は、石油危機以前の1バレル=3ドル1セントから11ドル65セントへと、4倍近く値上がりすることになりました。
石油価格上昇をきっかけに、「狂乱物価」と言われる猛烈なインフレが始まります。昭和49年10月までの1年間に、消費者物価・卸売物価とも全国平均で約24%上昇。安価な石油供給のうえに成り立っていた日本経済は、大きな危機に直面します。
ふたたび前掲のグラフに目を転じると、ドル・ショック後減少した尼崎製造業の製造品出荷額等総額はいったん持ち直したものの、昭和50年にふたたび減少に転じたことがわかります。石油危機の影響が、約1年遅れでダメージとなって表れたものと考えられます。
次項に紹介した各企業の対応や経営者の述懐〔じゅっかい〕からは、石油危機があらゆる製造業分野にとって従来にない、大きな試練であったことがわかります。厳しい合理化・省エネルギー策がとられ、さらには石油危機をきっかけに生まれた新たな需要に対応していくことで、それぞれの企業はこの危機に対処していきました。